神主 太田家の系譜

初代 太田縫殿助信綱に関する記述
承安3(1173)年は、平家の全盛期でした。
詳しくは、弐の鳥居
を参照

第三代 太田惣助信清 第四代 太田惣助清次に関する記述部分
第四代太田惣助清次によって、上野八幡神社が建立された記述がみえます。



第十五代 太田與兵衛信義に関する記述
彼は戦国武将でもありました。
地場産業の美濃和紙の生産の振興にも尽力した様子がうかがえます。

彼の妻に関する記述には、
ないしつこうづちじょうしゅさとうさいじろう(かたまさ)どのむすめ
「内室上有知城主佐藤才次郎(方政)殿娘」
とありますが、
旧地名の上有知とは、現美濃市全域と考えてほぼ間違いはありません。
佐藤才次郎(方政)は、当時この地方を支配した、戦国大名(約二万石と伝えられる)です。
彼才次郎は、関ヶ原の合戦には、西軍に味方し、敗北したため、改易領地没収、佐藤家は滅亡しました。
その後、上有知には、金森長近(かなもりながちか)が入封しています。

この部分の記述は、
内容的に見て、関ヶ原の合戦大阪の陣を混同して記述しているように見受けられましたので
私(宮司)は、信義が両戦役(合計三度の戦役)にかかわったものと解釈させていただきました。
詳しくは、上野八幡神社についてを参照

表参道

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送