表参道

美濃和紙の里
上野 八幡神社


上野 八幡神社について

★御祭神
★ご本殿
応神天皇(おうじんてんのう)天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)

★摂社
大国社
(だいこくしゃ)
大国主命(おおくにぬしのみこと)事代主命(ことしろぬしのみこと)
水神社(すいじんしゃ)
水波能女命(みずはのめのみこと)


手前より一の鳥居(石造)二の鳥居(朱塗)(ここにも狛犬さんが)


太田縫殿助(おおたぬいどのすけ)から数えて4代目太田惣助清次(おおたそうすけきよつぐ)は、延元2年(1337)8月15日、鎌倉鶴岡八幡宮より当時の神野村(現在の岐阜県美濃市上野)に御神霊を勧請(かんじょう=御分霊をお迎えする事)し八幡神社を御造営した。盛大な御祭が執り行われたと伝えられている。

今現在八幡神社の例大祭は4月に行なわれているが、以前は8月15日が例大祭の執り行われる日であった。

ついで第15代太田與兵衛信義(おおたよひょうえのぶよし)は慶長5年(1600)関が原の合戦、慶長19年(1614)大坂冬の陣、元和元年(1615)大坂夏の陣で江戸幕府方として参戦し御朱印(ごしゅいん=紙の売買を一手に引き受ける免許状のようなもの)を頂戴し武運長久の御礼に、社殿を造営したと伝えられている。

與兵衛と言う名は兵を与えると言う意味が込められ、さしずめ戦国動乱の世にあって傭兵隊長のような役割をはたしていたと考えられる。その武勇をあらわす言葉として「美濃の太田 百騎」と言う伝承がのこされている。(お断りしておきますが、私自身は戦争は大嫌いです。しかし、誰かの味方をしなければ生きていけなかった、当時の人の気持ちもわかってやってください)

なお、現在の御社殿は昭和18年(1943)当時村長であった私の祖父太田善衛門(おおたぜんえもん)らによって造営されたものである。

これは付けたしであるが、上下の写真を見てお気付きのお方もおみえになると思うが、当神社には狛犬(こまいぬ)が、な、なんと、7基も置かれている。大抵、どこの神社でも狛犬は、1基置かれているのが普通(私も他にはこのような神社を知らない)である。これら7基の狛犬は、念願が成就して立身出世を遂げられた方が、感謝の気持ちを込められて奉納された尊いものである。
このことからもこのお宮様に対して、いかに根強い信仰がもたれているのかがよくわかる。因みにその中の、1基は私の4代前の祖先の奉納したものである。(余計なことを、書いてすみません)



弐の鳥居(ここにも狛犬さんが)


石段より拝殿をのぞむ(ここにも狛犬さんが)



拝殿より石段をのぞむ(左 手水舎)(ここにも狛犬さんが)
林立する、狛犬、石灯籠の景観が圧巻ですよ!



拝殿(ここにも狛犬さんが)



拝殿内部
中門の御扉は母校上牧小学校の御真影奉安殿の御扉



中門御扉(ここにも狛犬さんが)

母校上牧小学校の御真影奉安殿の御扉



手前より、拝殿 幣殿 御本殿


祭典奉仕中の宮司



渡殿より御本殿大前をのぞむ
左 水神社 中央 御本殿 右 大国社



八幡神社御本殿



八幡神社御本殿大前御扉



第十五代太田與兵衛信義の時代の当世具足図
家にもこれと同じような鎧(年代的に見れば)が有ったらしいが江戸時代中期に大火災が発生し燃えてしまったらしい


勤皇の志士 太田蔵雄(おおたくらお)
この威厳に満ちた風貌をご覧いただきたい

家系を逆から辿れば、伝也ー訓三ー善衛門ー傳雄ー蔵雄となる
彼は幕末から明治にかけて生きた男で、、若い頃は地元の国学者、村瀬藤城(むらせとうじょう)先生に私淑し、先生のお供で頼山陽(らいさんよう)先生と対面した。絵画にも造詣が深く京都画壇、特に土佐派との交流があった。鳥羽伏見の戦いでは官軍として出陣している。明治になってからは皇典(こうてん)講究所で、神職の資格を取得し、また、出雲より千家尊福(せんけたかとみ)公をお迎えし一族挙げて出雲大社教に帰依したと伝えられる。
これは幼い頃古老に聞いた話であるが、蔵雄が長旅の途中ある家の軒先を借りて一休みしていた時、たまたま通りかかった子供たちが「天狗様だ、天狗様が来たぞ」などと言って大騒ぎになったと言う、ことである。真偽の程は定かではないが、私は面白いと思う。


上野八幡神社住所

〒501-3787
岐阜県美濃市上野289−1 
八幡神社宮司 太田伝也 
電話 050-3108-0620
FAX 0575-37-3013

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