表参道



美濃和紙の里
上野 八幡神社

宮司からのメッセージ


宮司 太田伝也
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宮司からのメッセージは、必要に応じて時々お話を付け加えたり、変更したりしていきますので、あなた様のリクエストを心からお待ちしております
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■2003/07/17 (木) 狛犬について(1)
狛犬について

一般の神社で見かける狛犬

「狛犬」は「高麗犬」「胡麻太」とも書き、神社の入り口や拝殿の前などに置かれている一対の獣形像のことをいう。狛犬の原形はオリエント、インドにおけるライオン像で、それが中国大陸そして朝鮮半鳥を経て渡来した。沖縄県では「シーザー」といわれる獅子が、各家の屋根に魔除(まよけ)として置かれているが、神社の狛犬も同様に、守護と魔除のために置かれている。一般的に狛犬は、二匹で一対(いっつい)になっていて、一方は口を開け、一方は口を閉じ「阿吽(あうん)」を表している。しかし、一対とも口を開けていたり、閉じていたり、後ろ足で立っていたりする狛犬もあり、その形は実に多様である。
また、お断りをしておくが神社だからといって、必ずしも狛犬が置かれているとは限らない。例を挙げれば、伊勢の神宮、熱田神宮、出雲大社など、ほかにもたくさんあるが、日本を代表する大社にかえって置かれていないのは、狛犬が外来のもので、しかもかなり後世になって普及したものと考えられる。
また、狛犬は神社特有のものではなく、数は少ないが寺院にも置かれている。また、変わったところでは、ユダヤ教の教会にも同じようなものが見られる。むしろ狛犬と言うよりはライオン像と言ったほうが良いのかも知れないが、狛犬に似ていなくもない。これは左右とも口をあけている。
■2003/07/17 (木) 狛犬について(2)
稲荷神社のお狐さん

古来から日本では、山や森、樹木に神さまが宿るとされ、御神木(ごしんぼく)としてお祀りされている例がある。これと同様に、動物にも神さまとの関わりを認めてきた。
動物に対する信仰は、やがて特定の動物を特定の神さまの、その神意を伝える使い(使者)とする信仰へと展開していった。
これらの動物の代表ともいえるのが、お稲荷さんの狐である。 稲荷神社の御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)(倉稲魂神)で、「宇迦」とは食(うけ)の意味であり、食糧をつかさどり、稲の成育を守る神さまである。
狐が稲荷神社の使いとされた理由としては、御祭神の別名である御饌津神(みけつかみ)のその文字に、狐(ケツネ=キツネの古語)を使い三狐神(みけつかみ)と記したことによるといわれているが、これについては諸説がある。
いずれにしても狐という動物は、私たちの先祖が、その生活の中で接ことの多かった親しい動物でもあり、おのずと稲荷神社の「使い」としての信仰が定まったのであろう。 狐=お稲荷さんということではない。
日本神道への誘い
■2003/07/17 (木) 神秘的な皇位継承儀礼
大嘗宮殿は、大嘗祭(だいじょうさい)という天皇陛下のご即位の儀式のためだけにご造営され、あとは取り壊される。
しつらえは、桧の立木の皮を剥いだだけのいわゆる黒木造りで、屋根は板葺き、壁面は簾(すだれ)を垂らし、床は薦(こも)を敷いただけのきわめて簡素な造りである。
ここで行われる儀式は、天孫ニニギノミコトが祖母天照大神の命を受けて、神々の御座所高天原から、この地上即ち、日本は九州の日向(宮崎県)の高千穂の峰に天下りになられたことを天皇陛下おん自ら追体験なされ、祖先の霊と一体になられると言う儀式だと伺う。
神話では、ニニギノミコトが真床乎衾(まどこおふすま)という、おくるみか布団のようなものにくるまれてご降臨になられた故事に基づき、陛下も同じように布団をお召しになられるという。
まさに、祖形の反復である。天皇陛下は、祖先の体験を追体験におなりになることにより、始めて名実ともに天皇の資格を得られるとお伺いする。実に、恐れ多いことではある。この祭儀は秘祭とされ、今なお全貌はベールに包まれている。
もう一つの儀式「即位の大礼」は、古代中国における皇帝の即位式にならったもので、諸外国にご即位を宣言するといった趣旨のものである。
■2003/07/14 (月) 祖形の反復
 お祭りの第一の意義は、祖形の反復である。こう言っても余りピンとこないかもしれない。そこで、この一点に焦点を当てて話を進めていくことにする。
 我々の生活は、過去の文化伝統の遺産の上に成り立っている。これは紛れも無い事実である。身の回りを取り巻く電化製品も、電子機器も、車をはじめとする便利な交通手段も、文学も、芸術も、スポーツも、数え上げたらきりが無い全てのものがそうなのである。だから、我々の生活は過去とは切っても切り離せないのである。一本の木に例えてみるとこのことは、より一層明確になる。まず根があり、幹があり、枝があり、そして我々は日光をさんさんと浴びて生い茂る葉っぱのような存在だと例えることが出来る。根も幹も無いのに枝葉が生い茂ることが出来ないように、一つの芸術作品を取ってみても、過去の伝統文化の継承のうえに新しい枝葉を継ぎ足して出てきているのである。このことは、天才芸術家であればあるほど、よくわきまえている。先人の偉業があったからこそ、今の自分の作品が開花したのだと。彼等は真剣であればあるほど、先人の辿った道を忠実に再現しようとする。
 お祭りもそのようなものである。
 皇室のご祭祀でも触れたが、神社のご祭神は神話に起源をもち、長い年月にわたり、その時代時代に生きた人々の尊崇を集め今に至っている。お祭りも、神話に起源をもち、その神話をもとにして、神々が辿った事跡を追体験しているのである。単なる儀式やパフォーマンスなどでは決して無いのである。報本反始と言い換えても良い。同じ事を、毎日、毎月、あるいは毎年、決して省略する事無く、みだりに改変する事無く、あくまでも以前のとおりのしきたりどおりに続けていくのである。これを繰り返すことにより、遠いはるか彼方に追いやられ忘れ去られようとしている過去を現代によみがえらせることが出来る。思い出すことが出来る。新しく自覚することが出来る。再確認出来る。決意を新たにすることが出来るのである。
発展する為には、過去との断絶ではなく過去とより一層密接に結びつくことが必要なのである。しかし、戦後の日本の精神世界は、過去との断絶によって、バラ色の未来が訪れるものとの幻想を抱いて来た。その結果どうであったかはここで述べる必要は無い。ひとつだけいえることは、より一層の精神的荒廃を招いたことである。断絶しているお祭りの復活を心より望む。
■2003/07/06 (日) 皇室のご祭祀(1)
始めに

我々神主の存在できる、唯一よって来るところの所以は、上御一人すなわち天皇陛下の御存在がおわしますればこそ、成り立つものであります。また、日本の文化、精神のよりどころと言っても過言ではありません。そこで、日本神道のあらましを述べる以前にここに、とても恐れ多いことではありますが、天皇陛下をお始めに、日本のお祭りの元の元に当たるご皇室のご祭祀についてあらましを述べさせていただきます。
日本の建国の歴史は皇室によって守られていた―。
知られざる皇室の祭祀について順をおって述べさせていただきます。
■2003/07/06 (日) 皇室のご祭祀(2)
■ 国の始めと皇位の由来

天皇陛下は二月十一日の日は、思し召しによる宮中三殿への臨時御拝がある。戦後、GHQの圧力で紀元節祭は廃止されてしまい、紀元節祭という名称は使っていないが、先帝(昭和天皇)は戦前の紀元節祭を受け継がれ、二月十一日には臨時御拝のお祭りを欠かさずなされた。そして今の陛下もそれを受け縦がれ、そのまま行っておられる。またその日は橿原神宮に勅使を遣わしておられる。
 
《戦前の紀元節は元旦、天長節、明治節と並ぶ四大節で、宮中における紀元節祭は大祭であった。》
法律上の規定はなくなっても、陛下は前と同じようになされている。
 それを、思し召しと言う。陛下がお祭りをすると仰せられると、宮中祭祀を担う掌典職がご奉仕させて頂くわけである。宮中では年頭一月一日の四方拝、歳旦祭に続いて、一月三日に元始祭(げんしさい)が行われる。この元始祭は大祭、天皇御親祭で年の始めにあたり、皇位の大本と由来とを祝し、国家、国民の繁栄を三殿で祈られるお祭りである。
 ということは宮中では年頭にすでに我が国の国の始めを祝うお祭りを齋行されていることになる。
 つまり皇位のよってきたる大本と由来とを祝し、また実際に第一代の天皇が即位された日と、その両方を大切にされてきているのである。

 そもそも、皇位の大本とは何であろうか?
それは天照大御神が授けられた天壌無窮の神勅である。「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国はこれわが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。さきくませ。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむことまさに天壌(あめつち)と窮(きはま)り無かるべし」という神勅のまにまに瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨されてあと、やがて神武天皇が大和の橿原で御位に就かれるということになる。
 つまり、皇位は神勅に由来するということである。そして皇位の御しるしが三種の神器なのである。
 正に神話に起源を持ち、神武天皇から天照大御神の御神勅にまで逆上ってお祝いするのが元始祭なのである。。
■2003/07/06 (日) 皇室のご祭祀(3)
■ 祭祀への厳重なご姿勢

 平成七年の一月一日、午前五時五十三分、関東方面で震度三の地震があったが、そのときは、歳旦祭で陛下が賢所でご拝礼されている最中であった。陛下はじっと平伏されていて決してお揺るぎにならなかった、勿論地震をお感じになったはずである。それくらい陛下のお祭りに臨まれるご態度は厳粛なものなのである。これが歴代天皇のご精神でいらっしゃる。国民全体が緩んだ中でも、陛下は決してお祭りを揺るがせにされることはないということを全国民は肝に命ずべきではなかろうか。
 
 宮中三殿の祭り主、つまり一般神社での宮司にあたるのはどなたかというと、それは陛下でいらっしゃる。陛下には、大祭小祭などのほかに旬(しゅん)祭の毎月一日には御直拝で御三殿に必ず御拝あそばしておられる。
  《宮中三殿 ― 中央に天照大御神をお祀りされている賢所(かしこどころ)、向かって左手に神武天皇から昭和天皇までの天皇方、皇后、皇妃、皇族方の御霊をお祀り申し上げる皇霊殿、右手に天神地祇八百万神をお祀りされている神殿が鎮座まします》

 天皇陛下は毎月、海外ご巡幸や大雪などのよほどのことが無い限りすべて、ご自身自ら宮中三殿にいらっしゃってお祭りに臨まれる。宮中三殿には冷暖房の設備はない。また時間は早朝で、例えば歳旦祭は午前五時半だから午前四時半頃には綾綺(りょうき)殿においでである。故皇太后様が先帝が歳旦祭に出られるときお詠みになられた御歌で「星かげのかがやく空の朝まだき君はいでます歳旦祭に」(昭和五十年「祭り」)とある。

 このように、皇后陛下もお見送りされるわけである。私たちが全然知らないところでのお祭りの営みでなのである。
 それは、私たちも考えなければいけないことであるが、今は宮中祭祀を陛下の私的行事ということにしてしまっているから、取材は一切させない。またいいかげんなことを書かれても困るからであろう。ただ、そのときどきの法令がどうであろうと、幕府の時代であろうと何であろうと陛下ご自身は天照大御神の御神勅以来のお祭りをきちんとあそばしていらっしゃるということである。そのことは先帝が今の陛下に、今の陛下が皇太子殿下にと如く、代々受け継がれて来たご伝統なのである。
■2003/07/06 (日) 皇室のご祭祀(4)
■ 厳重な戒め

 他の皇族の方々の祭祀へのご姿勢はと言うと、
各殿下妃殿下方ご熱心でいらっしゃると伺われる。皇后陛下も敬神の念、極めてお厚くいらっしゃるし、皇太子殿下もお祭りにご熱心で、ご研究も重ねておられる。ご専門の中世交通史に関連して、神社文書等も実に丹念にお調べでいらっしゃるとお聞きする。御多端の御公務のなかで敬服のほかはない。

 皇族のお方は皆、ご自身で皇族としてわきまえておかなければならないのは宮中祭祀だということを自覚しておみえになられる。外国の上流の人たちは皆宗教を持っていて自分を律している、それをよく見てこられているのだと思われる。御拝のときも一を聞いて十を知ると言うか、きちんとなされて、さすがにご聡明なお方ばかりである。秋篠宮殿下以下、お祭りにご熱心である。そして、天皇陛下は全皇族方に対してきちんと範を垂れておられる。例えば伊勢神宮の神嘗祭のときなど、全皇族方お慎みである。先帝もそうであったが、陛下もご公務だからといってその日に皇族が外出されることは許されない。その戒めは厳重である。

 最後に、英霊への思し召しについてであるが、
 硫黄島を詠まれた御製、それから八月に遺族会に下賜される御製に英霊への深い思し召しを拝することができる。また、先帝が大東亜戦争の戦没者に対していかにお心を注がれたかということをよく知っておられ、それを御継承なされていらっしゃる。
■2003/06/20 (金) 健全なる文化伝統の復興
実に嘆かわしいことであるが、我々の歴史や文化伝統に対する認識は、第二次大戦敗戦の後遺症からいまだに抜け出せていない。
卑近な例をあげてみれば、森首相の神の国発言を、マスコミが目くじらをたてて非難の嵐を浴びせた。
あの内容をよく読んでみれば分かるように、一般的な信仰心がある人なら、誰もが言うことである。ブッシュ大統領がよく演説で「神の御名のもとに〜」と言うが、あれには何にも言わないのはどういうことだ。
結果的に、教育機関が宗教的情操教育をおろそかにしたばかりに、精神的なよりどころが持てない不安を抱えた人、刹那主義に陥る人、そして子供の非行も増えた。
それではいけないとの危機感からか、最近は小学生の体験学習で、よく神社のことを調べに来る、子供たちが増えるようになった。実にうれしいことである。
また、子供たちに伝統宗教を教えることはいけないことだと主張していた多くの人は、正確な情報を掴むこともしないで、北朝鮮を盲目的に、理想国家だと信じてきた人が多いのである。
私も含め戦後教育の行き過ぎにより、当たり前に受け継いでもよい伝統から阻害されている人がいかに多いか想像を絶する余りである。
「身近に在っても知らない事ばかりなのは恥ずかしい限りです。」と仰る心ある若い人も少なくない。しかし彼等が悪いのではなく、悪いのは戦後の教育環境であったのだ。でも、それに気付けたことはすばらしいことではないか。
戦中戦後の動乱の時代の歴史をもっと真剣に討議してもいい時期なのではないか。また、偏った宗教を排除した教育が元で伝統文化からも切り離されてしまっている現状をもっと真剣に受け止めなければならない。自分たちに不都合な結果が出ると、アンケートを平気で打ち切るようなマスコミをそのまま鵜呑みで信じることは危険である。彼等は我々が無知であることを前提に、情報操作を平然と行って悦に言っている輩が実に多いのである。だまされてはいけない。

話は変わるが、神道の教えは、他宗教のように神の言葉を実践することより、まず身近な祖先を尊ぶことから始まる。身近な祖先すら尊べない人が、大元になる神を尊ぶ事などできようはずも無い。まずは、近親の御霊に素直で敬虔な気持ちから祈りを捧げることである。真心に勝るものは無しである。
■2003/06/19 (木) 戦争と平和
今から2000年以上前の日本人の人骨を調査すると、
剣や槍弓矢などで、体のどこかしらに傷を負った
骨が大量に発見されると言う。
縄文時代の骨には、そういったことが少ないらしい。
非常に興味深い話である。
その当時いったい何が行われていたのか、想像がつく。
きわめて物騒な時代だったことは間違いは無い。
現在アフリカのコンゴあたりでは、部族間の争いが絶えないと聞くが、
おそらくそのような状況だったのであろう。
しかし、我々の考える日本と言う国家の登場はまだ先の話である。
当然記録する文字も無いので、具体的なことは何も分からない。
ただ約2000年前、日本国土は統一されておらず、
多くの勢力が存在し、互いに争っていたと言うことである。
後漢書東夷伝にその様子をおぼろげながらに
かいま見ることが出来るくらいである。
神話に登場する、大国主命の国譲り、神武天皇の東征
大祓詞などのなかに、物語の裏で何かしら重大な出来事が
あったことを匂わせているような気がする。
これは現実的な話であるが、日本が統一国家の課程を歩む上で、
やはり、血で血を争う闘争が長い間行われてきたと言うことである。
しかし、邪馬台国から、統一大和政権へと国は統一されていった
過程があるからこそ、今の日本があるのだと考えたい。
統一国家になるには、物理的な武力のみの弾圧では、
いずれその政権は崩壊する。
そうならないようにするのには、どうしても精神的支えが必要になる。
それが、祭であり、神話であったと考えることは出来ないであろうか。
祭も神話もその統一政権が征服された部族に強制したものではなく、
次第にそれぞれの部族の持つ文化伝統のエッセンスが融合し、
同一化していった、いわゆるミックスジュースの
ようなものと考えられる。単体のジュースもおいしいが、
ミックスジュースもおいしいものである。
なぜ、そのようなことが可能になったのであろうか?
それは、最初は土着渡来の違いはあったにせよ、
同じ気候風土の中で暮らすうちに同じような自然観が
育まれていたからではなかろうか。
部族間の抗争もまったくの異民族同士の争いでは
なかったと言うことである。
同じ価値観をより多く持っていたことは、統一には良いことだった。
日本と言う国が出来上がって行く過程には、
目には見えない神の摂理が存在したと考えることは出来ないであろうか?
■2003/06/18 (水) 血で血を争う

パレスチナの歴史は複雑である。
もともとの住人であった、ユダヤ人は2000年前流浪の民となり、
世界各地に散らばっていった。その後千数百年は、アラブ系の
パレスチナ人の住むところとなる。しかし、1948年アメリカの後押しで、
新国家イスラエルが建国されると、パレスチナ人はその新国家の
領土の外に追い出され、先祖伝来の土地を失うことになった。
追い出された人々はたまったものではない。
彼等にとっては、千数百年の歴史と伝統があり、
近くの歴史をさかのぼっても、父母、お祖父さんお祖母さん、
ひいお祖父さんひいお祖母さん、ひいひいお祖父さんひいひいお祖母さん
の時代、確実にそこには生活のにおいがあったのである。
しかし、追い出された人たちが帰ってきて、彼等を追い出してしまった。
長年にわたりユダヤ人が祖国再建を悲願にして来たにしても、
これでは、事態がどう転んでもパレスチナ人の腹が脹れようはずがない。
しかし、いまさらイスラエルを滅ぼすことも難しいことである。
こんな中、血を血であがなう報復連鎖がおぞましくも続けられている。
2000年前祖国を追い出されたユダヤ人たちの心情は
如何ばかりだったであろうか?
もう、これ以上は人知では如何ともしがたい事態に追い込まれて
しまってはいないだろうか?
ユダヤ教のモーゼが人を殺戮することを良しとしたであろうか?
イスラム教の神は人殺しを是認するのか?
私はそうでは無いと信じたい。
人々は、何故このような時に神に真剣な祈りを捧げようとはしないのか?
いみじくもブッダが「怒りに怒りを持ってすれば、怒りは止むことが無い。
怒るのを止めた時、すなわち怒りは止む。これは、永遠の真理である」と
述べている。まさしく真理である。しかし、この真理を貫こうとすれば、
苦痛がともなう。しかし、この苦痛は、死の苦痛よりはるかに、
美しい苦痛ではないのか?
パレスチナの民よ、イスラエルの民よ、苦痛を乗り越え、
お互いに祈りあえ!すなわち平和は訪れる。

■2003/06/17 (火) 死は穢か?

 古来から、日本人の風習では死は一番重い穢として忌み嫌うものとされてきた。近親者が亡くなると、喪に服す決まりであった。そして、その間は普段どおりの生活では無く、歌舞音曲を避けるなど、慎み深い生活を送らねばならないと考えられていた。特に神社の参拝は一定の期間遠慮するものとされている。
死の穢と言うものは、果たして存在するのか?また、存在するならばそれはどのようなものなのであろうか?
私は、こう考える。この世で美しいものは生命を持っていることのほうが多い。日々刻々続けられる、生命活動がその存在を存在として我々の目に見える形で現れているのである。たとえば、花一つ例にとっても、やはり造花の花をいくら精巧に作り上げても、本物の花に勝る綺麗な花は作ることが出来ない。目には同じように見えても、造花は単に花の形をした形骸にしか過ぎない。はじめから命が無いのである。やはり、花は花である。そこに、目には見えない生命活動のダイナミズムを感じるからこそ、綺麗と感じられるのであろう。ところが、一旦萎え萎みだすと、それはたちまちにして美→醜へと劇的な変化を遂げる。また、それを見て感じる我々の心も変化する。古代から我々日本人はこのような事を穢として感じてきたのでは無かろうか。
また、人の死には近親者の悲しみが伴う。悲しみは喜びの反対である。このようなネガティブな感情も穢と感じられる。だから、死は最大の穢と認識され、ある一定の期間は喪に服するものとされたのは、経験に裏打ちされた行為なのである。
この世は、死する物が決して存在することを許されない生命の世界である。

■2003/06/13 (金) 日誌開設の主意表明

今の日本は、人心、経済ともに荒廃している。まさに危機的な状況にある。それを自覚している人は、果たして何人いるのだろうか?おそらく、日々の生活に追われ、また、惰性に流され見過ごしている人も多いのでは無いだろうか。
今何かしなければ、もう輝ける未来はやってこないのである。危機的状況ではあるが、まだ壊滅的な状況ではないのがせめてもの救いである。特にひどいのは、人心の荒廃である。一言で言えば、道徳教育の欠如から来る、人に対する思いやりの精神の欠如である。もっと、言うならば周りの状況を見回しても、このような時代だから、いろんな物事で傷ついている人がとても増えているのである。それを、理解すらしてあげないで、わざと傷口を足で蹴り上げるくらいのひどい仕打ちをして、平然としている人のなんと多いことか!憤りを覚えるのは、私だけであろうか?
そんなことを毎日繰り返していて、無事に生きているように見えるが、神の正義が最終的にその人の人生に何らかの形で判定を下されるものと信じてやまない。
これから、このメッセージを通じて皆が明るく楽しく幸せに暮らせる道を探っていきたいと思っている。

■2003/06/13 (金) 宮司のメッセージ記録所 オープン

宮司のメッセージ記録所 がオープンしました


天地万物自分の世界
 
12月11日(火)11時24分12秒

烏にはできても孔雀にはできないことがいっぱいあります。
人はとかく他人と比較しすぎるのです。
そこから、嫉妬やねたみ、嫉み、ジェラシーなどという、
人間にとってはまことによくない感情が生まれます。
その感情は、自分自身を苦しめ、
締め付けるだけで何の成長ももたらしません。
烏が烏であるように、自分は自分でしかありえないのです。
決して他の人にはなりえません。
他の人がどんな風であれ、自分とは関係ありません。
自分という存在は雄大なる宇宙にたった一つの存在なのです。
神から選ばれた存在なのです。
天地の万物、森羅万象、すべてあなたが体験しているのです。
もし、この世からあなたという存在が無ければ、
無意識、無感覚ということになり、
この世は無いに等しいでしょう。否、無いも同然です。
極端に言えば無いのです。
天地の万物すべて、
あなたという存在を通して体験しているのに過ぎないからです。
ですから皆さんは自分を他人と比較する癖を取り除く努力をしてください。


苦難の時こそ発展の時   
投稿日:12月 6日(木)16時13分01秒

内親王殿下御誕生は、暗い日本の世相の中にあって唯一明るい出来事でした。少しは景気がよくなってくれるものと期待しております。
小泉内閣のご決断も勇気あることと賞賛はしております。しかし、せっかくの景気自体がマイナス成長を続けるならば、税収は減り、改革自体が難航することでしょう。さらにリストラも増え続けこの国の基盤自体危うくなります。
しかしわれわれの祖先はいかなる苦難も乗り越えてきました。
古くは、唐帝国との戦い。敗れはしましたが、内地を土足で踏みにじられることはありませんでした。
二度にわたる、蒙古襲来。この時も何とか乗り切りました。
それから、幕末の黒船の来航、それに続く欧米列強の圧力。
この時も、ほかのアフリカ、アジア諸国が味わったような植民地支配から免れております。
そして昭和20年(1945)に訪れた日本が初めて味わった、完膚なきまでの敗戦。それから日本は不死鳥のように焦土の中からよみがえりました。その後のめざましい経済発展は皆様もご存知だと思います。
これらのことは、日本人が、神仏を敬い、祖先を尊び、その遺訓を顕彰する美徳が知らず知らずのうちに染み付いてきたからにほかなりません。
だからこそ、皆さん、負けてはなりません。くじけてもなりません。夜明けは近いのです。
こんなときこそ、祖先の抱いていた日本の心を自分の心の中によみがえらせ、改めて意識の改革を行っていきましょう。そして、われわれ祖先が、神が宿るとして崇めた大自然の雄大さにも目を向けてください。
決して忘れてはならないのは人は一人で生きているのではないということ。あなたを支えてくれる、家族、親類縁者、会社のスタッフ、友人、地域のさまざまな人々、
その他に影に日向にあなたを支えてくれている目には見えない霊的な存在(これが神さまです。御一柱ではなく、幽冥界を司る大国主大神、産土さま、産土さまの御眷属の神さま、ご先祖さまなど複数お見えのことと思いますが)に守られています。ある時は、皆様に親しみやすいように仏さまのお姿でお現れになることもあるでしょうが、根本は一つです。
そして、天御中主大神様 天照大神様たちが織り成してお見えになられる、雄大なる大宇宙の自然の摂理に守られてこそ、われわれの生命が存在できるのだということも決して忘れてはいけない大事なことです。
ですから、あなたのことを誰もが見捨てたように見えたとしても、決してあなたは一人ではありません。心の温もるような、目に見えない美しい糸で結ばれているのです。これは、とても大事なことですから、心に畳み込むようにして、意識の改革をなされることをお勧めします。そのために、開いてある私のページなのですから。
さあ、皆さん私のページで私と一緒に勉強しましょう。
私のページで、皆さんが励まされ、私も皆さんから励まされ、お互いに困難に立ち向かう勇気が得られるのであれば、こんなにうれしいことはありません。


あなたは今幸せですか

 変な事をお聞きして申し訳ありませんが、あなたは今幸せですか。

どうしてこんな事をお聞きするのかと言いますと、今現在自分が幸せだと思えない人がとても増えているからなのです。あるホームページで親から虐待を受けた経験を持つ子供(現在はみな成人になられているようですが)の方の体験談を読ませていただきました。それはもう読むのに耐えられない凄惨(せいさん=とてもひどい)なもので、そして彼ら、彼女らは、自分をひどいめにあわせた、その親を十数年、あるいは二十数年たった今でも恨んでいるようなのです。

無理の無い事だと思われ、同情の気持ちを禁じ得ません。しかし、これらの人は親から独立して幸せをつかめたかといえば、必ずしもそうではないと言う事が、とても悲しいことです。例えば藁をもつかむような気持ちで、家を飛び出していっしょに駆け落ちした彼氏が、父親に輪を掛けたような乱暴者だったり、またあれだけ苦しめられた暴力をわが子にも振るってしまい、やめられない自分に嫌悪感を抱いたり、罪悪感にさいなまれたり。余りにも読むのに耐えられない内容なので十数通読んだ段階で打ち切る事にしました。

しかし、私はこれらの人に言いたい。まずは、「つらかったね。悲しかったね。私も一緒にもらい泣きをしました」と言う。しかし、その自分を苦しめた両親は今そこに居て、今でもあなたを苦しめているのですか。違うでしょう。水に流しなさい、そして許しなさいと。冷たいようだが、これを愛深き冷淡と言う。これらの人は今存在もしない幻におどらされているのである。「水に流す」 時として良い言葉であり、われわれ日本人はこの言葉を好んで使ってきた。神道では、(みそぎ)という。水を注いで汚いものを流し去る事であり、自分を苦しめている根本原因(実=み)を削ぎ落とす事でもある。

もし、本当にあなたがこの悪循環から抜け出したいと切に願うのでしたら(誰も良かれと思っている人はいないはずですが)、このように唱えてください。恨んでいる人の顔を思いうかべながら、「私はあなたをゆるします」と何度も何度も唱えます。なるべくはっきりと口に出して言ったほうが、効果はあがりますが、場所によっては心の中でもかまいません。癖になってしまうほど、くどいくらい実行してみてください。最初はそんな心境にはとてもなれないでしょうが、我慢してがんばって実行してください。これは、言霊(ことだま)の力を利用した一種の(みそぎ)です。相手を恨む気持ちが自分自身をも傷つけてしまっていたと言う事実に気づく人は幸いです。その傷を真心のこもった言葉が、いやしてくれるのです。この場合決して人のためならず、自分のために実行するのだと心に決めてください。

6月の中旬頃ある御方からご質問がありましたので、付け加えさせていただきます。もちろん自分をも許すことです。それでも問題が解決しなければ、しかるべき精神科医(残念ながら私は詳しくありません)をお尋ねになられる事をお勧めします。心と体は一つのものですから、悪いところがあれば治療するだけの話です。心であろうと体であろうと傷は傷ですから早く治してください。

ラッキーな事に、私のホームページに縁あって巡りあうことの出来たあなたではありませんか。そして、まさに過去が過ぎ去ってしまった今がチャンスです。

この世に偶然とか、無駄なものは一切存在せず、縁あって貴重な体験をさせてもらっているわけではあるが、本来ならば体験しないほうがよかったつらい出来事に巡りあい心に傷を受けた人々が、自分の意識に大変革をもたらす訳であるから、それには時として苦痛をともなう。しかし、つらいからと言ってほかって置いてもいいのですか。自分には関係の無い事だと思われるお方は、このページから退出されても一向に構いません。でも、まだほかにも色々とお悩みの方もお見えでしょう。悩みの無い人生など人生にはありえません。しかし、問題を一つずつ解決する努力を怠って、それをほかっておけばおくほど身も心もどんどんと追い詰められていきます。

さあ、皆でいろんな意見を出し合って支えあって行こうではありませんか。なぜならば、問題点が明らかになればなるほど、大神様の御加護(ごかご=お守り頂き良い方向にお導き頂ける事)が受けやすくなるからです。この私も、ささやかながら、いろんな人のお役に立ちたいと誓願を立てて、ネットの海に飛び込んだ、一求道者にしか過ぎません。私自身溺れかけることも有るかも知れません。そんな時、いろんな意見を述べて私をおたすけください。おたより心からお待ちしております。


警告
珍説奇説に惑わされないでください
私がこのページを開設したのは、日本の伝統文化であり、かなり前まで、あなたたちのお祖父さんお祖母さんたち以前にはほぼ生活の中に溶け込んでいた神道の風俗習慣(これを一言で、神道の手振りと言う)が、時代の流れや政治的な要素などにより、正しく伝承されずほぼ断絶に近いような状況にあることを、憂いて、皮肉にも、日本において一番古い神道を、今や目覚しい発展を遂げつつある、最先端文化のネットの波に委ねることにより失われていきつつある伝統に少しでも歯止めをかけ、復活していきたいと決意したからであります。
皆さんは、驚かれるかもしれませんが、このページに掲載してある作法はもとより、次のページに掲載してある祝詞などは、あなた方の祖父母以前の時代には、全部ではないにせよ一応常識として、普通に行っていたものばかりです。また、ほかのページには一応心得ておいて欲しい事柄も述べられておりますが、一所にまとめてたたみかけるように書いて、余り肩苦しくならないように、あちらこちらに散りばめて述べると言った配慮もなされております。
もとより神道には、教義なるものがありません。でも信仰は人生の先輩の意見を参考にしたり、実際の行事に参加したりして、それぞれの生活の中でつかみとっていくものです。
世界三大宗教を否定する訳ではありませんが、もし私たちの直接の先祖であるホモサピエンスの人類の歴史が以前仮に十数万年あったと仮定すると、教祖がはっきりし、確立した教義を持つ宗教が成立したのは、いつのことでしょう。十数万年の歴史の中のたった二〜三千年前の事でしかありません。
教義が確立した宗教のみが立派な宗教だと錯覚しがちですが、人類の長い歴史上、そうとばかりは言えない事がわかってもらえたらと思います。教義を持った宗教も、教義を持たない宗教も、それぞれの使命を持ってこの世に存在しているのですからお互いに尊重しあいましょう。たとえ相手が自分と異なった宗教を信じていようと、それを原因にして争いごとを起こすことの絶対に無いようにしましょう。考えても見てください。何教の神様でも争い事自体お喜びになられるでしょうか。
最後に一番言いたい事は精神的空白を利用して、人々の心の闇に潜みこもうとする、よこしまなる教え、そして人を惑わす珍説奇説です。それらを述べる人は、まだそうだと確定もしていない事柄をあたかも事実のように断定する人です。大抵の人でしたら(感性の力が働いて)首をかしげるような事でも、ひょっとして騙されかねません。もし分からない場合、最低限の判断の仕方は、その人の生き様や、(詐称があるので何とも言えませんが)本に書いてある著者の略歴なども、一応参考になるでしょう。断っておきますがあくまでも一つの目安です、
一応私のページに目を通して頂いて、あとはご自分でご自由に、ご判断ください。真心を降り注いで述べているつもりですが、私の言っている事にも多々誤りもあることと思います。ただ、なるべく正しい精神の持ち方の参考にしていただくために、少しでもお手伝いが出来ましたならば、嬉しく思います。
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神道よもやま話



このコーナーではジャンルを問わず面白くてためになるお話をして行きたいと思います。
さてあなたは何に興味がありますか? 
超古代文明 UFOや宇宙人 超能力 怪奇現象 幽体離脱体験(実は私にもあります)
はたまたとても感動した素敵な体験など
何でも語りあい、楽しい心の旅路を一緒に続けましょう。
何でもよろしいですので、話のネタをお願いします。

第一話人間の幸せとは
人間にとって幸せとは何でしょうか。喜びとは何でしょうか。そんなに深く考えてもいない人でも、毎日を気分よく過ごせたらいいなぐらいはきっと思っているはず。でも、なぜ思い通りにいかないのかな。こんな人生いやだな。何がいやなのか、何が面白くないのか。探せば楽しい事がいっぱいあるはずなのにな〜。確かに娯楽は増えた。どんな人でもゲームやスポーツに夢中になった経験はあるはずだ。

時間を忘れて熱中する。決して悪い事ではない。しかし毎日そんな気分でとおれるはずもない。不況といっても食事は、気軽においしいものが手に入るようになった。お菓子だってたくさんの種類があふれかえっている。僕等が幼いころ、ご馳走といえばめざし、塩さば、塩秋刀魚、塩ます、鯨と言ったところか。塩じゃけなんて、正月にしか手に入らなかった。鯨は残念ながら今では手に入らないが、その他のものは今でも大好物である。あったかいご飯と漬物があれば最高。お茶づけもいい。でも今のようにたくさん種類がありすぎると何を食べたらよいのか解らなくなる。それでもまあ、おいしい料理に舌鼓を打つ事は決して悪い事ではない。でも一晩寝ればそれまでだ。

人間関係はどうか。夫、妻、親、子供、兄弟、姉妹、友達、同級生、下級生、上級生、先輩、後輩、先生、教え子、上司、部下。人間は本当は心の奥底では一つにつながっているのだが、表面の心は人それぞれだから同じはずはない。で、うまくいかない。面白くない。むかつく。なぜだ。誰もが仲良くやりたいと思っているはずなのに。仲良くやっていければ、気持ちよく毎日が過ごせるのに。なぜか。無意識のうちに相手にこういう風に振舞ってくれたらいいのにな〜などと要求してはいないだろうか。自分と相手は違うのだ。自分の思ったとおりに相手が動くなんて考えていた自分をどう思いますか。

相手に求める事をやめなさい。決して相手に期待しないで下さい。自分のエゴに気づきなさい。それよりも、いったい相手に何をして上げられるのかを真剣に考えてみてください。ここで勘違いしてはいけない事は、自分がかわいがられようという下心で行ってはいけないと言う事です。うまくいって、しめしめと言う薄っぺらい喜びしか感じられない。うまくいかなかった時の悔しさはあなたを絶望の淵に陥れる。

ここで大事なのは、いったい相手にとって何が一番大切かを選び取るあなたの選択(せんたく)能力です。どの様にすればいいのか考えてみてください。実は皆さんも何度も経験しているはずです。横断歩道で止まってあげた時のあの笑顔。満員電車で席を譲ってあげた時のこととか。あなたの心もほのぼのとしませんでしたか。それは何気なく無意識のうちに出た好意だからです。さりげない自分が無理をしないでも自然に出たからです。この時人は心の奥底でつながっていると言う一体感を味わっているのです。それぞれに違う表面の心を何とかしようと思うのをやめたらいかがですか。だいぶ気分が楽になりますよ。

勉強はかどっていますか。お仕事は順調ですか。誰も今の結果に満足している人はいないと思います。しかし、ここでは反対に考えてみたらいかがでしょう。出来なかったことを悔やむのではなく、自分はここまでやったんだと言う成果に注目するのです。何が出来ましたか。やることはやってきたじゃないですか。出来ていない事は、未だやっていないだけだと考え、これからの課題として、優先順位をつけて重要なことから一つずつやって行けばいいのです。あせっても仕方がありません。少しは楽になりなさい。

このように、人間は周りの状況に縛られすぎなのです。引きずりまわされて自分の事がわからなくなっています。心と体はもうばらばらと言った感じではないですか。確かに周囲のことも大事ですが、人間は余りにも周りのことに振り回されて、一番自分にとって身近なはずの自分を見失っています。おかしな言い方に聞こえますが、おかしいどころか悲しい現実です。

そこで少し考えてみてください。考えるのはどなたですか。あなたです。例えば自分の周りにはいろんな人がいて、いろんなものがあって、その中で暮らしています。なぜそれが解るのでしょうか。あなたが存在しているからです。あなたがいきているからです。あなたの心が感じているからです。もしあなたが小説の中の主人公だとしたら、この世が存在している事すらわからない。紙の上に印刷されたただの名前にしか過ぎないからです。あなたは違います。

極端な言い方をすれば、たとえこの世が存在しようともしなくとも、まずあなたがいてこその、あなたにとっての世界ではありませんか。もし、あなたがいなければもし世界があったとしても、無いのも同然でしょう。「吾思うゆえに吾あり」も大事ですが、もっと突っ込んで「吾思うゆえに世界あり」と考えて心の大空を羽ばたいてください。神道ではこのように、今体験もしていない死後の世界の事をとやかく言う前に、今生かされている現実に重点を置いているのです。今あなたが生きている事がどれほど重大で、すばらしい事なのかお解かりですか。もう少し、その奥を知りたくはありませんか。

それを知ることは、感じる自分がどこにあるのか静かに見つめることにつながります。そしてたとえ30分でいいから、外の世界をうっちゃって、自分とだけ過ごす、時間を作りなさい。静かに目を閉じてゆったりするのも良い。柔らかな音楽を聴きながらまどろむのも良い。

そうしているうちにあなたは今まで味わった事の無い安らぎに満たされるでしょう。そして自分のすばらしさ、世界の美しさを再発見する事が出来ます。なぜならば所詮世界の現実も自分のセンサーを通してでないと認識するわけにもいかないからです。多分センサーもかなりくたびれていた事と思います。メンテナンスしてやってください。

そうこうするうちに、不思議な事にやがてはそれらのものを私たちにお恵み下さっている神様たちの事も自然と感じ取れるようになっていきます。しかし、現在の心境でいくら頭の中で神様を思い描いたところで、それは神様と言うヴィジョンにしか過ぎないのです。

神様は、実感できるようになってはじめてその実在が感じられるのです。信ずるか、信じないかと言ったあやふやなものでなくて、確かな実在が感じられる。それを実感する近道として、ご祈願ご祈祷をお受けになり、神霊のお放ちになるバイブレーションに直接お触れになることをお勧めします。そのことは、私ばかりでなく、真剣に神様にお仕えしている神社の神主さん誰もが、ご自身の体験の中から確信されている事だと思います。しかし決して強制など致しませんからご安心を。

ご祈祷をお受けになられない場合、やや、少し遠回りにはなりますが、自ら祈りを捧げてもよろしいでしょう。しかし続けるうちに強い自分が生れます。希望者には、祈りの声のテープと祝詞、解説書をお志(実費 3000円+郵送料)にてお分けします。参拝の作法は、このページの始めのほうに解説しておきましたので、よくお読みの上行ってください。

しかし、決して無理はしないで下さい。また心の内面の問題は正しい指導者につかないと進歩が見られないことをお断りしておきます。もし私と一緒に心の旅を続けるお覚悟がおありなら、精一杯おささえするつもりでいます。どんな些細な事でもご相談ください。お力になります。

実感できるか出来ないかの瀬戸際、信仰とはそういうものなのです。しかし今は何も企まないで安らいでください。今のあなたにとっては安らぎこそが一番大事だからです。

平成13年6月9日追記
昨日また忌まわしい事件がおきてしまいました。このところ余りにも多発しすぎると思うのは私だけでしょうか。ご遺族のご心痛、計り知れないものを感じます。ましてやいたいけの無い少年少女に刃が向けられるとは。その上連鎖事件までおきた。

自分の住んでいる所から離れた所で起こった出来事だから、いくら残虐でも私には関係ないと、はたして言い切る事が出来るでしょうか。私は、私たち全体の問題としてとらえるべきだと思います。あえて極論を言わせていただければ、人間社会全体が病んでいるとでも申しましょうか。その証拠に精神状態に不調をきたしている人が急増しています。私自身も言われない不安感に襲われる事が多くなりました。この不安感は、恐らく人間社会全体の心の闇から発せられたうめき声が伝わってくるのではないかと感じています。あなたはいかがですか。何も感じませんか。そんな事は無いと思います。もし、私の考えに思い当る節がおありならば、色々とお話をお聞かせください。

なぜこのような社会になってしまったのか。一ついえることは人の数だけやたらといるが孤独感にさいなまれる人の数も急増しているという、奇妙な現象に陥っているのである。地域社会のコミュニティーの崩壊である。文明は加速度的に進歩し、ネット上での人の結びつきはより深まったように思えるが、所詮虚構のコミュニティーにしか過ぎない。一度も顔をあわせた事の無い人同士がネット上で知り合い、トラブルが発生し、殺人事件にまで至る。孤独を癒そうとすがった先にこの結末を迎えなければならないとは、いかにも悲しい。まずは、肌の触れ合えるほどの距離で親しい関係を結べる人間がなぜ見つからないのか。ネット上では人間的な息づかい一つ感じられないではないか。それでもなお虚構のコミュニティーにすがらねばならないほど人が恋しいのか。悲しくてとてもやりきれない。

このように人間は、一番大切にしなければならない人と人との結びつきを崩壊に導いている。親しい人に囲まれて、過ごす充実感は何物にも代えがたい喜びであるべきだ。その意味で人間は立派な建造物をたくさん作ったにも関わらず、人間社会の建設に失敗してしまった。しかし、これから作り直すことも出来る。それは私たちの社会であるから私たち一人一人の問題である。この点についておいおい論議を深めつつ出来る事から実行に移していきましょう。

もう一つきつい一言を言わせて頂くならば、あなたはあなたにとって一番大事な人を真剣に愛していますかと言う事です。親であり子であり夫であり妻であり立場は様々だが、全部一番大事にしなければならない。よくよく考えていただきたい。一番の人間関係の基本をないがしろにして何をかいわんやである。


上野八幡神社社務所
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