表参道

美濃和紙の里
上野 八幡神社

大麻(おおぬさ)による修祓(しゅばつ)

罪穢れとは何か?


 神道では(けが)れを嫌い、清浄(せいじょう=清らかな状態)を尊いものとする。倫理的な善と悪、心の中のプラス思考とマイナス思考、目に見えるきれいさときたなさ、または、目には見えないが怒りや、悲しみなどのマイナスの感情、死霊などが影響すると見られてきた、その場のおぞましい雰囲気、などを、区別することなく、全部ひっくるめて、古代日本人の感性では、これら対極(正反対の位置)にあるものを、清らかであるか、穢れているかで価値判断の基準としてきた。
特に対極にあり、もっとも重大な穢とされてきた。なぜならば、この世で美しいとされるものの多くは、生きているからこそ、美しく輝いているのである。ところが、一旦死が訪れると、その生命活動を維持してきたすべての組織は急速に壊滅に向かい、その容姿をたちまちのうちに変貌させてしまう。この極端なからへの、余りにも急激なによる変化の一つではないか?
また、近親が死を迎えた時の遺族の嘆きや悲しみは、筆舌に尽くしがたいものがある。喜び→悲しみ。笑い→慟哭。心の平安→心の動揺。これらのネガティブな心や感情としてとらえられてきたのである。

 日本がおよそ6世紀ごろから取り入れた古代中国思想や仏教思想(仏教そのものを否定してはいません)、特に、幕末よりさかんに流入した欧米の科学的思想などは物事を言葉を用いて、徹底的に分析して行く。なぜならば、「情にほだされて騙(だま)されるなよ」と言う切実なる教訓から生み出された何事も近寄るのを憚(はばか)られるくらいの一見強固で磐石(ばんじゃく=岩のように堅い事)な思想に見えるからである。

いくら感性に訴えかける、とても確かと感じられるものでも、現実に起こったとされる(?)(O教授のように事実でさえもこの考えに合わないからとて否定してしまうような、おかしな現実も起きてはいるが)様々な出来事、耳に聞こえる言葉や記された言葉で無い限りは、論外として、一応は退けてしまう。その上更にやたらと、証拠、根拠を求める。そうしないと自己撞着(じこどうちゃく)、自己矛盾(じこむじゅん)におちいるからである。

 また、それがこの考え方の限界でもある。即ち感性と言う自然のなかに明らかに存在するものを無視した、不自然極まりない姿勢のもとに構築されたイデオロギーと言える。確かに便利であり、皆その恩恵にあずかってすら来た。しかし、その中にゴミと間違えて捨ててしまった、どれほど大事なメッセージが含まれているか解らないというのに。

その方法(弁証法=弁、つまり、言葉による証明の積み重ねにより、結論を導き出してゆく)によって要点が明らかになっていくようで、なるほど便利ではあるが、反対にその言葉によって縛られもしごまかされもする。俗に言う詭弁(きべんと言う言葉である。

詭弁とは、一見すると理路整然としていて、本当のように聞こえるがどこか納得がいかない。しかし、余りにもうまく論理立てられているので、どう反論して良いのかわからない。しかし、何れ偽りだと言う事がわかるという言葉である。

 古代日本人は、「神道は言(こと)あげせず」(わかりきったことや、当たり前のことを、いちいち言葉で説明しない)という宣言をモットーに、難解(なんかい=むつかしい)な言葉に頼ろうとするのではなく、直感で物事の本質を把握(はあく=にぎりしめる)してきたのである。

 また、日本神道が他の民族宗教のように、死教(死んだ宗教)にならず、いまだに連綿として続いているのは、神道が民族宗教でありつつ、かつ天皇陛下を信仰の中心とした宗教であったと言う、世界にも例を見ない一大特色を持っていたからであるが、そのことは、余りにも重大過ぎるお話なので、おいおい述べて行く事にするが、ここではこの提言のみにとどめて置く。

 さて、話をもとに戻せば、例えば、現代人のわれわれも、誰かが不正を働いたという話を耳にしたとき「悪い事をしやがって」と言う代わりに、思わず「汚い事をしやがって、、、」などと言う言葉が口をついて出てくることはないだろうか。即ちこれが私たちの気づかないところで、古代から連綿として続いている日本人の感性なのである。

信仰的に見るならば、けがれは、気枯れであり、本来誰もが持っている溌剌(はつらつ)とした生気が萎(な)えしぼんだ状態である。また、はそれを包み隠して外に現さない状態を言う。それらを、祓いに祓い;清めに清めて本来の光り輝く姿に立ち返らせる。それが神道の奥底に隠されている思想の潮流である。学問を究め、理論理屈を学ぶ事ももちろん大切な事であるが、神様から与えられた感性をより一層磨くことが一番大切なことである。

例えば、ある大人が「どうして人を殺してはいけないのか、子供に説明出来ない」と悩んでみえたが、理屈で説明しようとするからそんな簡単なことでもわからなくなるのである。そんな時は、鉛筆を削らせるとか、彫刻をやらせるとか、刃物に接する機会を増やしてあげればいいのだ。子供は創造力がみなぎっているので、夢中になること間違いなし。そして、その中から、傷ついた時の痛み、刃物の怖さを自然と体得するようになる。もちろんそれを人に向けることがどれほどのことなのか、もう説明する必要もなくなる

日本神道への誘い

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