表参道

参拝者九万人突破記念講演

このページの最後に私がお友達になった、かわいい「鳥さん」の写真があります。
奇蹟?のスズメバチの巣の写真もあります。
【神慮を畏こむということ】

私は、上野八幡神社神道掲示板 http://jbbs.livedoor.jp/otaku/692/の「祝詞のことで」「詩歌スレ」などのスレッドで、再三にわたり「神慮を畏こむ」と言って来ました。しかし、「言っていることが、余りにも漠然としている。」「はたして、神慮なるものが存在するにせよ、どのような方法で、それを知ることができるのか?」「そもそも、神慮などと言うものが存在するのか?所詮人間が作り上げた妄想じゃないのか?」などとお思いの方が多いことと思います。そこで、神慮なるものを解説させていただきたいと思います。

結論から申しますと、神慮なるものは確実に存在するものなのです。また、それは人間の意識と確実に直結しているのです。逆説的に申しますと、自分自身に神慮と直結する意識があるからこそ、「神慮を畏こむ」ことが、可能になるわけです。これを言いかえれば、「直感」「直覚」と言っても良いでしょう。しかし、「直感」「直覚」と言ってしまいますと、「なんだ、ばかばかしい。そんなもの神慮と何の関係があるのか?」とお叱りを受けそうです。しかし、「直感」「直覚」とは言えども、立派な感覚器官のようなものです。

おそらく多くの人は、「所詮、「直感」「直覚」等と言うものは、実に曖昧なもので、そんなもの役に立たない。」などとお思いではないでしょうか。なぜ、このようにお考えの人が多いのかと言えば、単なる思い付きや空想と、「直感」「直覚」を混同してしまっている人が余りにも多いからです。しかし、「直感」「直覚」と「単なる思い付きや空想」とは、明らかに違います。では、その明らかな違いとは何でしょうか?

それは、確信が持てるか、持てないかの違いです。心に感じることはいくらでもありますが、「これは確信が持てる、自信を持ってそうだと断言できる。」と言うのが、「直感」「直覚」であり、「こんなことがぼんやりと思い浮かんだんだけど、どうなのかなあ?」と言うのが、「単なる思い付きや空想」にしか過ぎないのです。

しかし、人間はとかくいろんな雑念に迷い、惑わされると、「直感」「直覚」と「単なる思い付きや空想」の区別がつかなくなってしまいます。疑い深くなりすぎて、疑いに疑った結果、結局は騙されてしまったり、誤った方法や行動を選び取ってしまうのはこのためなのです。

では、自分の心の中から「直感」「直覚」が自然に、素直な状態で浮かんでくるにはどうすれば良いのでしょうか?それには絶えず、自分に素直になることが大切です。自分の素直な気持ちを信頼することです。また、その自分の素直な心の源流は一体どこに水源を持っているのか?深くお考えください。また、その素直な心は、万人にも共通するとの自覚を心に強くお持ちください。自分にも、また自分以外の万人にも共通して自然に宿っている、素直な心は、はたして曖昧で、偶然にしか過ぎないものなのでしょうか?私はこれを大きな愛の流れであると確信します。そして、その流れの源流こそ、「神慮」にほかならないのです。

【神慮を畏こむこと2】

以上のお話しで、「直感」「直覚」=「神慮」であることが大体お分かりいただけたものと思います。しかし、このことを単なる頭だけの理解に留めてしまっておくことは、人間として余りにもむなしいことなのです。

「神慮」がお分かりになられた次は「神慮を畏こむ」ことを始めなければなりません。
「神慮を畏こむ」とは、「直感」「直覚」=「神慮」であることを確信した上で、絶えず神様のお立場に立って、「神様ならこの場合、どのようにお考えになられるのか?」を念頭において物事の判断をより明瞭にしていくことです。

「直感」「直覚」=「神慮」との確信がある以上、より一層の自信が生まれてきますし、さらに「神様」という尊い御存在のお立場に立って、お相手を思いやる崇高な気持ちも育まれてきますので、より自分自身の人格も深めていくことができます。実に、神様を敬う気持ちと、人間としてのお相手を思いやる気持ちは、愛と真心に満たされた、どちらも同じの尊い人間としての心情なのです。

しかし、とかく人間はともすれば煩い悩む存在でもあります。その、「煩い悩み」が人間を苦悩に陥れるのです。この苦悩には、自ら招いた苦悩、外的要因によってもたらされた苦悩がありますが、いずれも苦悩には変わりはありません。これを神道では、「罪穢」と言います。この世で生きている以上、この苦悩を味わうことはいくらでもあります。しかし、苦悩に身を任せていても、どうなるものでもありません。苦悩は苦悩を呼び寄せ、苦悩すなわち人生になってしまいます。では、この苦悩から抜け出すにはどうしたら良いのでしょうか?

それは、まず苦悩を自分の心の中から消し去ることです。また、はたしてどうすればそれができるようになるのでしょうか?
人間の心の中には、苦悩を苦悩と感じる心があります。その心は、自分を無意識のうちに守ろうとする、防御本能の心から来ていることが多いのです。現実として、その苦悩が今必要でないのなら、いいえ、自分を苛み苦しめるとんでもない存在であるなら、一旦は、この心にお引取り願おうではありませんか!

【神慮を畏こむこと3】

では、どのようにしてこの苦悩の心にお引取り願ったら良いのでしょうか?
人間の心は、目覚めている時表面の意識が働いています。主に、大脳新皮質による思考という作業がとめどなく繰り返されています。この作業は、計算などの作業や、一応予定が組まれていて、ある程度結果が予想される物事なら、充分にその能力を発揮してくれます。
しかし、一見便利に見える人間の表面の意識は、人間の心に長い間にわたって蓄積されてきた、潜在意識の集大成によって絶えず影響を受けているということを忘れてはいけません。つまり、絶えず幸せをかみ締めてきた人は、表面の心も常に明るい思いで満たされていますし、絶えず不幸を味わってきた人は、表面の心が暗くて惨めな思いに満たされてしまっています。

表面の心は、予想のつく事柄の処理には大いに力を発揮してくれますが、表面の心が暗くて惨めな思いに満たされてしまっている人に限って、考えても結論が出ない事柄を延々と考え込んでしまうものなのです。

では、この悪い癖を断ち切るにはどうすれば良いのでしょうか?
それは、「一旦考えることをあきらめる」ことです。

【神慮を畏こむこと4】

一言で、「一旦考えることをあきらめる」と言ったところで、潜在意識からの情報の蓄積によって、絶えず悪い情報に晒され続けてきた人、それに身を任せて自己改善の努力を怠たったり、また、「人生なんて思うようにならない。」と決め付け、あきらめてしまっている人にはたやすいことではないかもしれません。

しかし、こんな人に限って、愚痴や不平不満が多いものなのです。現状に甘んじ、それが当たり前と思っているのなら、愚痴や不平不満など口にしなくても良いのです。ましてや人の迷惑も顧みず、人に言いふらさなくても良いのです。

しかし、こんな人に限って、人に自分自身の不平不満をぶちまけたくなるものなのです。一見して、大きな矛盾と考えられますが、彼等は自分に自分自身の境遇にこらえきれないほどの、不平不満をいだいているものなのです。そして、それを人にわめきたてることによって、一時的にストレスを解消しているのです。俗に、「ものを言わぬは、腹ふくれぬわざ」などとも言います。

しかし、人に話したところで根本的な解決はできていませんので、同じことを何度も繰り返すことになってしまいます。しかし、そんな人でも、このままではいけない、何とかしなくてはとかすかにでも思ってはいるものなのです。それが人間の真性なのです。しかし、ここで改善に努めようとする意志を全面に打ち出すのか?それとも「どうでもいいや。」とあきらめるかで、その後の人生は大きく変わってきます。

簡単に意識の転換をするには、自分が絶えず繰り返してきた愚かな行為を、「あ〜ばかばかしい。」と開き直れるかどうかにかかっています。

【神慮を畏こむこと5】

この、「あ〜ばかばかしい。」と開き直れることが、「一旦考えることをあきらめる」ことにつながるのです。ここまで思うことができれば、第一段階をクリアーできたことにつながります。
しかし、そう思えたところで、その後何もしなければもとの心の状態にもどってしまいます。なぜかといえば、人間の表面で立ち働いてくれている心は習慣性の心(潜在意識)から絶えず影響を受け続けているからなのです。つまり、最初は自分自身の決意と決断が必要なのですが、根本の潜在意識を良い情報で満たしていく努力を怠れば、心全体が完全に良い想念で満たされてはいませんので、せっかく良い心がけになりかけている表面の心に絶えず潜在意識からの暗い想念が流れ出し続け、次第にもとの苦悩に満ちた自分の心に引き戻されてしまうのです。まさに、ほとんど多くの人がこの段階で留まってしまっていることを心しなければなりません。

しかし、ここでいろいろと考えるより、心さえも自分が自分であり続けるために神から授けられた尊い装置の一部であると考えを改めることも大切です。また、人間の肉体も人間の一部分と考えるのは容易なことです。つまりここでは、肉体の健康と心の健康を同列になぞらえて考えると言った、発想の転換をはかることがとても大切です。
健康を維持するために、食生活や睡眠時間などの時間配分などに気を配ったり、肉体を鍛えることは誰でも充分承知していることだと思います。

しかし、皆さんは心の健康、心の強靭さを手に入れるにはどうしたらよいのかお考えになられたことはありますでしょうか。おそらくそこまでも考えが及ばない人もおみえでしょうし、充分お考えになっている人もおみえになられるでしょう。実は、心も肉体も同じように考えればよいのです。もっと言えば、体を健康にしたり鍛えたりするのと同じ気持ちで、心の問題も考えなさいということなのです。

【神慮を畏こむこと6】

肉体を鍛えるにしたところで、実際に体を動かさなければならないことは当然です。そのとき、最初のうちはインストラクターの動作をみようみまねで覚えようとしますが、次第に同じ動作を何度も何度も繰り返しているうちに、次第に体が自然に動くようになります。
水泳などを例に取りますと、先ずは水に馴染んで浮くことを体に覚えこませなくて、次に進むことはできません。いくら泳ぎ方のハウツウ本を精読したところで、いきなり水の中に投げこまれれば溺れるに決まっているのです。

それと同じように心を健康にし、精神を鍛えるには、人間の心の特質にあったトレーニングを積まなければなりません。こう言うと何か特別な難しいことをしなければならないように思いますが、いたって簡単なことです。最終的には良い想念を脳全体に働きかけることが目的になりますので、先ずは準備段階として、何度も言うように、「一旦考えることをあきらめる」ことを徹底するのです。もっと詳しく言うと、この考えると言う意識をつかさどっている、大脳新皮質の働きを一時的に弱めてしまうことなのです。こうすることにより、普段は一応心の壁で遮断されている、潜在意識を表面に出てきやすくしてあげることなのです。そうすれば、いろんな想念の詰まった潜在意識の浄化がより一層可能になります。

実は、いろんな伝統宗教で行われてきたさまざまな行法は、以上のことを踏まえて出てきているのです。現在、アスリートなどが行っている、イメージトレーニング、メンタルトレーニングは、過去の伝統行法に科学的なメスを入れ、再編成しなおして応用している場合が多いのです。

【神慮を畏こむこと7】

そうは言ったところで、私たちはアスリートではありませんので、複雑に編成されたカリキュラムによる、メンタルトレーニングに頼らなければならないことはありませんし、また、実行しようにも金銭的にも、環境的にも不可能です。

私は再三再四、「一旦考えることをあきらめる」と言っていますが、いくら精神的トレーニングを積むにしたところで、この「一旦考えることをあきらめる」ことをクリアーできなければ、次に進むことは不可能なのです。瞑想が良いと思って実践したところで、「一旦考えることをあきらめる」ところまで到達できた人は少ないと思われます。静かな環境の中では、かえっていろんな雑念が浮かんできて、「一旦考えることをあきらめる」どころではなくなってしまうのです。また、そのような状態では、脳が沈静化された状態の時、発生すると言うアルファ波、シータ波を誘発することもとても不可能です。ですから、瞑想はよほど時間をかけ、段階を踏まえ、正しい指導者の指導にもとに、行うだけの覚悟がありさえすれば、お勧めしますが、この中途挫折になりやすいトレーニング法を私はあまり、お勧めすることはできせん。

なぜなら、それを行えば良いに決まってはいても、完遂する可能性のきわめてとぼしいトレーニングでは、中途挫折した時の挫折感が潜在意識にマイナスに作用しやすいですし、中途挫折してしまっていたのでは、せっかく自分が良い方向に変われそうなはるか以前に、また悲惨な現状に引き戻されてしまいやすいからです。

私は瞑想行法を否定してはいません。やりたい人はやっていただいて結構だと思っています。しかし、目的は自己意識の全面的改革なのですから、あえて困難な方法を選び取る必要は無いと考えています。

また、各種の成功哲学のプログラムは、実践できる方は、実践しても構いませんが、ほとんど一様に、百数十万円の価格に設定されています。私は個人的には、高額すぎると考えています。せめて20〜30万円代の価格帯だったら、もっと多くの人に利用してもらえるのに、もちろん、それでも売り手の利益も一応確保できそうなのに、あまりにも高額すぎると思っています。これでは、売り手が成功できるプログラムみたいです。

また、原価の知れているパワーストーンを、さぞ奇蹟が起きるような印象を与えて、20〜30万円以上の高額で販売して暴利をむさぼっている悪徳霊感商法組織がありますが、あくまでも自己改革をするのは自助努力だということを肝に銘じ、くれぐれもそんなことで自分の人生など変えられるはずは無いといった厳しい姿勢を崩さないでください。

【神慮を畏こむこと8】

以上のお話ししたことで一番重要なことは、「一旦考えることをあきらめる」には、具体的にはどうすれば良いのか?と言うことです。

それには、「考える暇を奪ってあげれば」良いのです。この場合、勘違いをしてはいけないのは、すぐに洗脳とかマインドコントロールなどと言ったいかがわしいことを連想しがちですが、私の言っていることはまるっきり違うということです。。

考えても考えても解決できない問題を考え続けても、自分の心を苛むだけですから、そんなばかばかしいことをするのはやめて、「一旦考えることをあきらめる」さらに、そのために、「考える暇を奪ってあげる」と言っているのです。

はたして具体的にはどうすれば良いのでしょうか?
私はその鍵は祝詞奏上にあると考えています。祝詞の言葉の持つ善言美辞、祝詞奏上の発する音声の波動が脳にダイレクトに働きかけますので、脳波を一瞬にして沈静化させてくれます。まずは、ひたすらお聴きになられることをお勧めします。何も考えなくても、脳には直接届いていますので、聞き流すつもりでお気軽にお聴きください。そのうちに自然と心が穏やかになり、人間としての本来の、愛、真心、思いやり、神への感謝などの信仰心が自然と芽生えてきます。

また、祝詞の言霊音霊の持つ祓えの力がその場を満たしてくれますので、自然と守りのバリアーの力が高められ、災難から守られる力が格段に増加していきます。これらのことはあまりにも神秘的なこと、眉唾のことのように思われますが、私のところに寄せられる各種体験談がそれを物語っています。

むしろ、私は以前祝詞奏上を神に対する、感謝、奉賛、一般民衆の幸せの祈願、さらに祈りによって自己を確立して、少しでも世間にお役に立てる人間になることなど、むしろ精神的なことを重点においてきましたが、皆さんの体験談に触れることによって、祝詞への見識を新たにすることができました。つまり、祝詞の音声には、祝詞の音声自体が持つパワーがあるということなのです。

【神慮を畏こむこと9】

祝詞拝聴はこれで充分と言うことはありませんので、ひたすら聴き続け、潜在意識の浄化にお役立てください。この状態で、そして、たまには神棚などの御前で、祓詞、神棚拝詞などの祝詞を奏上して日々の感謝の誠をお捧げください。もちろん自己流でも構いませんので。

この状態で私が提案している、「一旦考えることをあきらめる」さらに、「考える暇を奪ってあげれば」がなかば実行されているのです。人間は外界の事物に集中すればするほど、心の中の思考の働きは、弱められてくるものなのですから。また、祝詞の持つお清めの力も期待できます。

更に、お時間が取れるようでしたら、音読でも黙読でもかまいませんので、CDをプレーしながら、祝詞本で一字一句を追っていってください。さらに印象深く心に刻み付けられるここと思います。また、この時点で、心底からの信仰心が芽生えてくる人が多くなるのも驚きです。何事もいいかげんにだらだら行うことは禁物ですが、祝詞に関しましては、肩肘張らずに、常に神にお守りいただいているのだという安心感をもって日々穏やかな心で実践していってください。

真摯なお気持ちさえあれば、自動車の中でお聴きになられることも構いません。その場合、お車の中が、神聖な祭場になっていることでしょう。

また、CDプレーヤーと祝詞CDをあらかじめ用意し、散歩がてら、よくお参りする近所の無住の崇敬神社や、氏神様などに出かけ、CDをプレーしながら、ご自分も祝詞本を読みながら、祝詞奏上を実践なされることをお勧めします。
神域は、祝詞の音声の持つ波動で浄化され、あなたの神様に捧げる誠の心とあいまり、神域を浄化し、大神様はお喜びになられ、氏子住民を守護する御力をさらに御発揮になられ、あなたに更なる祝福をもお与えくださいます。

【神慮を畏こむこと10】

お断りしておきますが、神職が常駐しておみえで、絶えず参拝者が入れ替わり立ち代り訪れ、ご祈祷の祝詞奏上の声が絶えない神社の場合、TPOにあわせてご自身の声で祝詞を奏上することは構いませんが、ご祈祷の邪魔になるような行為は慎んでください。

私は、無住で普段は祝詞があがらない神社があまりにも多いことを嘆いています。しかし、神社側の運営の面で、それもやむをえないことだとは思っています。しかし、神社の大神様のお立場に立つと、奉賽の感謝の誠のこもった祝詞が普段はあがらないことを寂しく思っておみえなのです。その問題を解決するためには、神職一般のわけ隔てなく、祝詞を奏上できる人を増やしていくことだと思っています。そのためにも私の祝詞CDの音声が一助になればと思っています。

あなたも日本人なら、神社参拝のとき、祝詞を奏上してください。お願いします。

そして、最終的には祝詞本を見ながらで結構ですので、ご自身で祝詞奏上なされることをお勧めします。しかし、早く自力で奏上できるようにとあせって、祝詞CD拝聴をおろそかにしてしまうことはお勧めできません。何度でも聴く機会をお作りください。良いものは良いのですから、BGM調でもかまいません。

決して啓して遠ざけることが美徳なのではなく、祝詞を自分の身近に置くことこそ、大神様がもっとお喜びになられることだと言うことも肝に銘じておいてください。

もちろん、祝詞CDには私の精一杯の、大神様と崇敬者に向けられた、愛と真心と祝福がこめられています。祝詞奏上中に感極まって涙したこともあります。しかし、涙声になっては聴きづらいので、録音を中断したことも何度もありました。

最近思うのですが、私のオリジナルの音声で奏上されている「上野八幡神社神拝祝詞集成CD」を聴きながら、きっと、私が奏上しているようにみえて、神様が私にのりうつって私に奏上させていらっしゃるように思えてなりません。

【神慮を畏こむこと11】

祝詞奏上を自分のものにできるようになったとき、あなたはあなたが、以前のあなたの心境と大いに変貌を遂げていることに驚きになられることでしょう。おそらく「こだわり」と「とらわれ」を捨てた大きな心でものごとを見つめることができるようになっておみえのことと思います。

そうなったら、なるべく祝詞奏上をする機会を多く見つけ、人々の幸せのためにお祈りください。もちろん、その行為自体あなたにも幸せをもたらします。

また、大祓詞や日本再生祝詞、守護霊拝詞などの長文の祝詞を奏上すると、呼吸が苦しくなり、脳内血流がやや酸欠状態になりますが、多少辛抱して最後まで奏上していただきますと、唱え終わったあと、呼吸を整えるとき、いわれなき爽快感を味わうことができます。

この時、呼吸を整えるのに合わせて、軽く目を閉じて鎮魂(たましずめ)を行ってください。そのまま正座の姿勢で、深く深呼吸するだけで結構です。ものすごく気持ちが良いですよ。
その鎮魂が徐々に深まってきた時、あなたは得も言われぬ神秘的な気持ちにおそわることでしょう。その気持ちの特徴は、うれしい気持ち。胸がほんのりと温かくなるような優しさに満ち溢れた気持ち。喜ばしい気持ち。さわやかですがすがしい気持ち。明るく楽しい気持ちなどが、ない交ぜになった、とてもすばらしい気持ちに満たされます。

卑近な例としましては、恋人どうしが一緒にいるとき味わう気持ちに良く似ていると言えなくもないですが、微妙に違います。決定的な違いは、万物との自他一体感です。それに比べ恋人との一体感は、恋人その人一人に対してだけの一体感が多いのです。

詳しくその時の心情を語りますと、まず神は私の親神様なのだとの子供が親を慕うのと同じ気持ちになります。お父さんお母さんのように、すぐそばで見守っていてくださるような安心感に包まれます。もちろん、うれしくてたまらず、涙することもあります。きっと、そのときは目には見えないけれども実際に神様やその眷属神、自分にとって御縁ある御霊さまが来ておいでに違いないと思います。その場合は「完全に考えることを忘れ」て、自分の全意識を開いて心の目で感じ取っていますので、その感性自体には誤りはないと確信しています。言い方を変えれば、神との一体感を全身全霊で味わっている状態なのです。

もう一つ付け加えると、自分が神の子だと言う自覚が生まれますと、自分以外の人間にも神の尊い神性が宿っていることが分かりますので、お互いがお互いの尊い命を拝みあう敬虔で真摯な気持ちに包まれるのです。私が、「掲示板」の「詩歌スレ」で、何度も詠んでいるテーマでもあるのです。

私の最終的な使命は、皆さん一人一人が、直接神様と結びつく、その仲立ちを務めさせていただいていることだと思います。

☆このことが、ここのテーマになっている、【神慮を畏こむ】ことの全貌なのです。

【神慮を畏こむこと12】

さらに全身全霊で感じることができるのは、神と人との一体感だけでは有りません。主に「祝詞のことで」や「詩歌スレ」にも書きましたような、天地万物との自他一体感も含まれています。

口で、気安く神と人との自他一体感、天地万物との自他一体感などと言いますと、「そんな気分味わえっこない!きっと幻覚に違いない。」などと、切って捨ててしまう人も大勢おみえのことと思います。ろくに祈りもせず、表面の心のみを強制的に仕向けたところで、味わう(感じる)ことは不可能です。それは一面無理の無いことです。

なぜなら、それぞれ万物は一見すると離れ離れに存在しているように見えるからです。確かにこの世に生活するうえにおいて、自他との差別、区別は当然の判断基準です。しかし、その差別区別ばかりに焦点をあわせてしまうと、自他が離れ離れになっていることへの寂しさが沸き起こってきたり、時としてその疎外感ゆえの、敵対関係にまで発展し、争いや憎しみ、嫉妬、などの感情が生まれ、実際の争いにまで発展してしまうのです。

しかし、それを癒してくれるのは、祈りという特効薬にほかなりません。その中で最たるものは、祝詞奏上とその合間に呼吸を整える鎮魂なのです。私は各種瞑想法や、成功哲学などを実践しましたが、今では祝詞奏上が、一番効率的で優れた実践法であることを確信しています。この方法は、どの方法でも出発点でネックになってしまっている、「一旦考えることをあきらめる」さらに、「考える暇を奪ってあげる」が一番簡単に得られる方法だからなのです。

手段を選ばないがために、遠回りの方法で苦労することは、たとえば、せっかく登山を楽しもうと思っていても、登山訓練の段階で、体調を崩してしまっていたり、疲れ果てていてしまっていてはせっかくの登山を楽しむことはできません。丁度それと同じことなのです。

また、祝詞奏上はそれに輪をかけて、祝詞そのものがもつ、言霊音霊の力、神秘的な祓えの霊力が加味されるわけですから、まさに鬼に金棒です。また、祝詞を奏上する行為そのものは、神様に対する敬虔なご奉仕の真心が込められますので、実際に神様があなたを祝福して、人生を良い方向にお導きいただけるのです。これほどありがたいことはほかにはありません。

私が祝詞奏上の方法について思ったことは、「参列者に聞こえなくてはいけない」「発音ははっきりと明瞭に」「息の余裕のある範囲内で、なるべくゆっくりと」「声は腹から出す」「なるべく聴きづらい、不必要な変な抑揚はつけない」「なるべく母音は伸ばす」「絶対に言葉尻が無声音にならない」「祝詞の最後は、ゆっくり伸ばす」「神様と崇敬者の中取持ちとして、両者に敬意をはらい、謹んで、穏やかに、優しい気持ちで奏上する」などでしょうか?まだあるかも知れませんが、一応私の祝詞奏上の心がまえです。

私は祝詞奏上が人間の心にダイレクトに働きかける要因の一つは、「なるべく母音は伸ばす」「絶対に言葉尻が無声音にならない」「祝詞の最後は、ゆっくり伸ばす」と言ったように、母音を必ず有声音にして、なるべく長く伸ばす祝詞特有の発声が、祝詞を聴く場合も、みずから奏上する場合も、脳波に心地よいうねりを与えるのではないかと思っています。

また、言霊の神秘的な働きは、実際に体感してはじめて感じるものです。私でさえ、言霊、音霊の霊力に関しましては、漠然的に、単なる観念としてしか捉えていなかったことを反省しています。

【神慮を畏こむこと13】

次に自他一体感すなわち、万物との自他一体感ということは実際にどのような感じなのかを説明します。
さきに、「恋人どうしが一緒にいるとき味わう気持ちに良く似ている」と言いましたが、この気分を恋人一人だけに対してだけでなく、どんな外界の対象に対しても感じてしまうのです。

しかし、邪悪な存在に対しては、なんともいえないおぞましい、汚らわしい気分に襲われ、一刻も早くその場所から立ち退きたい、その人物から離れたい気分に満たされます。卑近な例をあげるとすれば、丁度鮮度の落ちたお魚や生ごみ、人間の死臭に似てなくもありません。しかし、この場合感覚器官の鼻が実際に匂いをかいでいるわけですが、邪悪なものに接した時の匂いは、心の鼻で感じ取っている匂いなのです。おそらく、清らかな水に少しでもにごった水を混ぜると、濁りが目立つのに、にごった水ににごった水を混ぜても、どれだけにごりがひどくなったのか分からないのと同じことだと思います。つまり、ちょっとした穢れさえ気になるくらい、祓い清められているのだと思います。

自他一体感、つまり万物との自他一体感に話を戻しますと、目に見えるもの、触れるものがすべていとおしく思えてくるのです。全ての人、物が光り輝いて見えます。それは、恋人に接するような、仲の良いお友達と触れ合うようなそんな気分なのです。お花にも、森の緑にも、木立ちや草木、蝶やその他昆虫にも、鳥さんに対しても、ペットの犬や猫に対しても、ましてや人間に対しても、お互いに神の命を宿している、自分と同じ仲間なのだと思えてきます。
このように、自然に自他一体感を味わい、とても愛しく思えてしまうのです。この気分は、自分を強制しても味わうことができない、自然な気分なのです。

でも、私はこの気分は、誰でも祈りに祈りを重ねれば、自然と沸き起こってくるものだと確信します。この精神状態では、敵の存在が心の中にありませんから、無理をせず、無駄な争いを避けて、ものごとを正しい方向に導くことができます。一見すると困難に見える交渉などでも、気付いてみると正しい方向で収まっていることが多いのです。

私はぜひあなたにも、この最高に気持ちのいい気分を味わっていただきたいと願っています。

※以下は、神さまとの自他一体感、天地万物との自他一体感を深く味わった(感じた)時に詠んだ歌です。どんな感じだったのか?よくお分かりいただけると思います。

人は皆 互みの命 拝みあい ただ神ながら 心結ばる
ひとはみな かたみのいのち おがみあい ただかんながら こころむすばる

只管に 祈れば草も 木も花も 吾とともがら 心結べり
ひたぶるに いのればくさも きもはなも われとともがら こころむすべり

大神の 御心 心に 重ね見む 弥々澄みにし 鏡なりけり
おおかみの みこころ こころに かさねみむ いよよすみにし かがみなりけり

大神様のお心を自分の心に重ねて、心の目で必死に見つめていますの。そうすると、鏡のように自分の心も澄んでくるようなのです。ただうれしくて、涙ぐむ時もあります。

誰も彼も 生けるもの皆 同胞と 心の目にて 見るぞうれしき
だれもかも いけるものみな はらからと こころのめにて みるぞうれしき

よろこびは 満ち満ち溢れ 胸熱し 言途切れしも 心で話せり
よろこびは みちみちあふれ むねあつし こととぎれしも こころではなせり

鎮魂 心に咲く花 見つめ居り 甘き香は 満ちて溢れん
たましずめ こころにさくはな みつめおり あまきかおりは みちてあふれん

若葉萌え 空ははるかに 澄み渡り 鳥さえずりし 神の苑かな
わかばもえ そらははるかに すみわたり とりさえずりし かみのそのかな

青空に 解き放ちたり 心をば いよよ澄みきり いよよ輝く
あおぞらに ときはなちたり こころをば いよよすみきり いよよかがやく

実は、私は、この気持ちが偽りではないことを証明する体験を何度もしています。

一つは、拝殿で休憩していると、どこからともなくクロアゲハが飛んできて、私の体にとまろうとしました。私は残念ながらくすぐったい気分にとらわれ、体をそらしてしまいましたが、何度も私に近づこうとして、やがて飛んでゆきました。普通なら昆虫も防御本能から身の危険を感じて逃げるのが当たり前なのですよね?

もう一つの体験は、多分ひばりだと思いますが、家の中に入り込みじっとたたずんでいたのです。居心地が良かったのでしょうか?普通では考えられないことに、私が近寄っても逃げないので、千載一遇のシャッタ−チャンスと思って、デジカメを取りに行きました。多分逃げてしまっているに違いないと、現場に行ってみると、まだ廊下で静かにしているではありませんか。

私は、何度か「鳥さん」に向けてシャッターを切ったあと、あまりにも可愛いかったので、頭をそっと優しく撫でてあげたのですが、、「鳥さん」はおとなしく頭を撫でられてじっとしていました。心持、目をそっと細めたような気もしました。私もじ〜んと胸が熱くなりました。
しばらくして、「いくら仲良くなっても一緒には暮らせないから早くおうちにお戻り。」と心の中で話し掛け、画像の取り込みにかかりましたが、鳥さんはそのうちにいなくなっていました。
私にとってはとても心が温まる不思議な体験でした。

これも、自他一体感を体感しなければとても体験することができなかった、不思議な体験だと思えてなりません。

そういえば、まだ、不思議なことがあります。
玄関のすぐ左上にスズメバチが巣を作ったのですが、蜂さんたちはブンブン鳴きながら巣に出入りしていたのですが、不思議なことに誰も刺されていません。こんなところに巣を作ったら、皆さんはどうなさいますか?駆除を依頼しますか?私は駆除は考えていませんでしたが、蜂さんたちに、いつも、「場所は貸してあげるから、こちらには来ないでね。」と話し掛けていました。


もちろんこれらの出来事が、祝詞CD製作の大きな原動力になったことは、言うまでもありません。

私がお友達になった鳥さん(2005年2月撮影)

とてもかわいかったです♪そう言えば今年は酉年

玄関向かってすぐ左上にある、スズメバチの巣
獰猛なことで知られるスズメバチですが、巣がこんなに玄関のすぐ近くにあるのに、家族も来訪者も誰も刺されませんでした。来訪者にはあえて巣のことは知らせませんでした。私自身、これと言った自覚(怖いと思ったことも、迷惑だと思ったことも)は無いのですが、一度も誰も刺されていないこと自体奇蹟なのでしょうか?でも、こんなところに巣をかけられること自体、一般的にはとても危険で怖いことのようですね?でも、私が鈍感なのでしょうか?さあよく分かりません。
以上の奇蹟に近い?、それとも奇蹟?の出来事は、長い間私の胸に秘めてきた出来事です。私自身あまり、積極的に主張することをためらってしまいがちな人間ですが、今回あえて勇気をもって告白しました。ですから、はっきり言って皆さんの御反応が怖いです。でも、勇気をもってお読みますので、メールでご感想をお願いします。


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